幸せがはじまったころ

アルバイトをしていた美術画廊は、たっぷり一日中待ってもお客さんが来なかった。夕方五時に仕事が終わると、小川の流れる緑道を歩いて駅へ向かった。

 

暑い日は小川のせせらぎが耳に心地よく、寒い日はカフェの灯が美しく群青の夜に映える緑道だった。公園帰りの親子連れや、おしゃれした男女に逆行しながら歩いていると、ふと自分はこれから何をして生きてゆくのだろうという不安に駆られることがあった。

 

「誰でもできる仕事です」という学生課の求人票を見てこの仕事を始めたのは大学一年生の時で、気がつけば四年生になっていた。将来を語り合った友人はみんな街を出てしまい、私は雨の日の落ち葉のようにぺったりと地元に貼り付いていた。ぐずぐずといろいろなタイミングを見送っては、残っている、というより、残された、という感覚を深めていた。

生まれ育った街には七十万人の人々が暮らしている。人も街もおだやかで、どこにいてもゆったりと空が広がっている。美しく漆黒に光るお城や、四季折々の花を咲かせる庭園も素晴らしく、ことに夜の姿は幻想的で、それを見るために遠くからわざわざ訪れる人は多い。

 

けれど、時々、風が止む。無数の花びらが、足下に溜まっていく。

 

美術画廊のオーナーは、卒業後の身の振り方についてときどき私に質問をした。そのたびに私は、
「…外国へ、行こうと思って」
と答えていた。

 

ギャラリーの展示品のようにつつましく静かに、何かが起こるのを、買い手が現れるのを、ひたすらに待って過ごしていた。そんな日常をひっくり返してみたかった。

 

あまりにも長い間待ちすぎて、体のすみずみが寂しさで充たされた時、感覚は先に遠くへ飛び出して行こうとする。私は、見たこともないグレイハウンドの切符をすでに持っていた。いろいろなものを見、感じていた。ニューヨークのエンパイヤ・ステート。砂漠の中のグランドキャニオン。シアトルのセーフコ・スタジアムの真ん中に立つイチロー選手。

 

「海外へ行くなら卒業旅行でじゅうぶんだよ」

 

と誰もが口々に言った。インターンや教育実習や資格習得、ありとあらゆる実践的な社会参加を私に勧めた。美術画廊のオーナーだけは違った。
「やりたいことを、人はやるべきだ」
微笑みながら、私を甘やかしていた。

 

彼は当時すでに90歳を超えていた。東京の大学を出たあとは企業で働いていたのだが、40代の頃リウマチを発病して向こうの暮らしをあきらめた。あえなく家業を継いだのが、この美術画廊だった。

 

リウマチというのは、恐ろしい病気だ。指や背中を曲げ、曲げたかたちのまま硬直させてしまう。オーナーはソファに座る時にも人の手を借りなければならなかった。生活のありとあらゆる便利が失われてしまっていた。病気は人を変えてしまう。でも、すべてを奪えるというわけではない。

 

ギャラリーでの仕事は、ほんとうに誰にでもできる内容だった。全て判で押したように単調で代わり映えしなかった。美術品の売り方や売れた時の対応の仕方を、私は一切学んでいない。(心配する必要などまったくなかったけれど、学んでおいたら良かったかなと、今すこしだけ思い返すことはある。)

 

誰も踏んでいない絨毯に掃除機をかけ、埃ひとつ落ちていないガラスケースを水拭きする。美術品たちはもう何年もひんやりとした眠りに包まれていた。彼らは、まるで宇宙のように特別な、ゆったりとした時間の中にいた。

 

静かだった。透明なガラスのおもてに、さきほど拭いた水のつぶが美しく光っていて、そのひとつひとつが蒸発していく音にならない気配と、私の息づかいだけが感じられる空間だった。時おり、ぽたり、ぽたりと水の滴る音が響いた。私はまるで自分が、古めかしいビルの一角ではなく、祈りに満たされた地下の礼拝堂にいるような気がした。

 

それから私は大学を卒業した。「外国へ行くんだね?」というオーナーの度重なる確認に、最後まで「そうしようと思います」と答えて。

 

決意などなかった。嘘になるかもしれない、とも承知していた。不安と期待が淡く混じり合うその感じのまま、分からないことだらけで大人になっていくしかなかった。

 

ただ分かっていたことが一つだけあるとしたら、私のこの手足は、オーナーがどうしても自由に動かしたくてかなわなかった、最後の一日の手足なのだということだった。

 

飛行機を乗り継いで、夜を越える。機体が空港をとらえ、大きく傾く。眠りの繭がやぶれて、乾いた機内へ意識がころがり出る時、窓の外はいつだってまぶしすぎる。その輪郭を光の中からすこしずつ、拾い上げていく。

 

――それは、街だ。東京、ニューヨーク、ワシントンD.C.、ラスベガス、サンフランシスコ……。

想いを言葉にするということの力を、人はもっと真剣に信じたほうがいい。卒業後、私はほんとうにそれらの都市を訪れていた。アメリカ東海岸から西海岸まで一直線に旅をし、そのままシアトルからカナダに入国した。バンクーバーは日本人が多かった。そこからちいさな飛行機で小一時間、ビクトリアという町に着いた。そこでアパートを借りた。それから一年間、日本に帰らなかった。

 

いつまでも上がらない踏切の向こうには光の街があった。気が遠くなるほど幾つもの夜行列車をやり過ごして、私はやっと気づいた。幸せが始まらないなら、始めるしかない。それは気づいたというより、生涯ではじめて私が何かを決めた瞬間だったのかもしれなかった。なんて素敵なんだろう。意志の足で踏み出せば、どんな場所にも一生分の自由があった。

 

ギャラリーでの四年間のことは、今でも時々思い出す。そこには何もなかった。何もかも昨日と同じ姿をしていた。同じ光、同じ音、同じ匂いをさせる空洞。確かに同じ時間のリボンでつながっているのに、いまは、すべて手が届かない夢の中のもののよう。あの、ほろにがい時間は、いったい何だったのだろう。

 

やがて多くの外国人とともに働き、次の目標に向かって独立するまで、私は、長い間、その四年間を瓶につめて大切に持っていた。

 

そっと瓶をゆすり、さまざまな角度から光にあてると、とろりと輝く。

 

――あの頃、これから何をして生きてゆくのか、分からなかった。でも、無為に過ごしたわけではなかった。これからのことを語ろうとしていた。自分自身の物語を、懸命に見つけようとしていた。

この瓶のラベルには何も書かれていない。でも物語には名前が必要だ。もしかしてもしかすると、この物語に耳を傾けてくれる人が現れるかもしれない。かつて私がそうだったように、今日の意味を見失いそうな誰かが。

 

伝えたいんだ。

 

「ゼロを持っているなら、それは無限の可能性なのだ」ということを。

 

だから、なるべく美しい名前にしておこう。

 

「幸せがはじまったころ」とか、そんな具合に。

あのギャラリーから始まった私の夢は、やがて瓶から、とぷり、と溢れた。そして、ずいぶん時間が経った今も、その美しい波状をさまざまな色に変化させながら、豊かにゆるやかに広がっている。

 

 

2018.1.9