【エッセイ】ネイビー記念日

淡い色が好きだった。

ふわんと花の香りがするような、みずいろ、ピンク、薄紫、オフホワイト。

それらが私にとって自由の色だったのは、きっと「ネイビー」からいちばん遠かったから。ネイビーに触れる時、一瞬呼吸が止まるような気がする。心が水に溶けた絵の具のようにぽたぽたと滴り、過去と混じり合っていく。

早く大人になりたかったから、濃紺の制服はきらいだった。長い行列を終えてやっと自分の番がきたのに、制服はお断りですと冷ややかにあしらわれた。もっと世界を、自分の目で見て手で触りたかった。

ネイビーは私を、教室の窓ぎわに立ちすくませ、春夏秋冬の傍観者にさせた。だから卒業後長らく、その色を捨てていた。

二〇一六年の秋、七年間続けていた仕事を辞めた時、これから何が起こるのか、じつは全然見えていなかった。どうしても「書く」ことがしたくて、その強固な想いだけが先走っていた。不安がなかったというと嘘になる。けれど、心は、どこまでも自由だった。

秋の始まりの街で、ふと濃紺のセーターを手に取った。わけもなく、そうしてみようという気持ちになったのだ。何年ぶりだろうとすこし不安を感じながら袖を通し、おそるおそる鏡を見ると、いつもとちがう私がいた。

「…いいじゃないか」

と思った。

どうしてこの色だけを特別に扱い、隔離していたのだろう。黒でもなく青くもないこの色が、生まれたての新しい色に見え、その中で私はきりりと背すじを伸ばしていた。なんだか頭も心も風通しが良い。

これまで、勝手に閉じ込められていたのかもしれない。心のつかえがとれて、肩の荷が下りたような気がした。

世界のすべては、なにもかもじつは同じ色で、私たちが色を感じるのは光や脳の記憶にもよると、科学の本で読んだ。つまりは、私たちがどんな解釈をしようとも、世界はありのままに存在している。そう考えると、自由の扉はいつだって開かれているのだろうと思う。あとはもう、私たち次第だ。

そして、セーターを買った。

選ぶことの意味をふたたび思い出させてくれたそのセーターは、クロゼットの中で凛としていて、手持ちの服さえ新しい印象に変えてくれた。

ネイビーにもあかるいものや暗いものがあり、同じ系統には藍色や瑠璃色という無数のグラデーションがあることも知った。新しい扉は、きっとまだまだたくさんある。

人生の季節は巡るものでなく、自分で決めるものなのかもしれない。かつて「選ばされていた」制服の色から、「自分で選んだ」ネイビーの色。新しい挑戦に、立ち向かう自分でありたいな。そして、楽しんでいたい。

ふだんあまり着ない色の服を着てみる、いつもの朝食を変えてみる、仕事帰りに、お花を買って帰る……ささやかなことからでいい。そうやって少しずつ、新しい日常を旅してゆくのだ。

今日はネイビーを着て、すこしわくわくしている。